図書という形態はこれからも続くのだろうか

雑記
積まれた本と、徹夜で調べものをする様子のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20191007281post-23613.html

Twitterやニュースサイトを眺めながら
「これも読書と呼べるだろうか」
なんてことを考えた。
まとまったテキストを読むことを読書と呼ぶのならばネット上に溢れる媒体も大して変わらないのではないかと。

Twitterにしても最近はスレッドの機能がついてある程度まとまった塊としての文章を成立させられるようになってきたし、そもそもあの短文メディアはたくさんの意見をざっと見渡せることができるという点に価値がある。そしてまとまりの大きさで考えれば非常に規模がでかい。
フォローする相手を選んでリストにすれば雑誌のように使うこともできる。カスタマイズできる読書機能と考えられる。

読書、という言葉は本を読む行為に違いない。
疑問を挟む余地もなくその言葉と意味はイコールで固く結ばれていた。

が、テキストを読む、文字を追っていく、という行為はネット媒体の拡大によって大きく本質を変えてきた。ブログの誕生がきっかけと言えたかも知れない。誰でも気軽に、そして手軽に自分の思うことを日々公の場に晒すことが可能になった。

このようなメディアが発達するまでは、多くの人に言いたいことを聞いてもらうには本を出版するか新聞や雑誌などの取材を受けるか、自分で寄稿するかなどしなければならず、その門は狭かった。
公開される前にまず編集者のゴーサインが必要だった。
ここで価値なしとみなされれば、著者本人がいくら精魂かけて書き上げたものでもあっさりとボツを喰らい、日の目を見ない。
そんなものがほとんどだったはずだ。

しかし現在ではブログは一般的なネットサービスとして成立し、誰でも金をかけずに自分の文章を発表できる。それだけでなく、従来の書籍としての形態も電子書籍としてデータとして同時に扱うことができるようになり、もはや紙の本と電子書籍を同時に発売するのも普通のことになった。この流れから、電子書籍を読むときに「読書」という言葉は自然に当てはまる。

そもそも本という言葉も期限をたどれば粘土板やパピルス紙だった。
bookやlivreという単語も木の皮をさす言葉から来ている。これは紙の素材としてではなく、直接木の皮に文字を書いていたことに由来する。
媒体は時代と共に変化し続けてきた。

noteのようなサイトを見ているとありとあらゆる分野が混在したまま一つのメディアとして成立している。もはや自費出版で大金をかけて自分の本を出版する時代が終わったと思える。

とはいえ、
誰でもできるようになった、ということは要するにピンキリの世界になっていく。テキスト全体で考えれば玉石混交で平均的な質の低下につながる。母数が増えれば必然的に生じる変化と言える。

編集者による選別という事前の淘汰が行われない分、その文章を読むべきかどうかを「すき♡」や著者のフォロワー数などで、ある程度推し量る。これは民主的な変化といえるが、反面、運の要素も高まる。トップページは常に更新されていくから、書いたものはどんどん視界に入らなくなっていく。

常に読んでもらうにはフォロワーを獲得していくことになる。
フォロワーの獲得は一朝一夕には敵わず、長く書き続けて目に止まるようにしていかなければならない。一つ一つは長くなくても時間をかけて大量の文章を書いていくことになる。そういう意味では「書く」行為には大きな変化があるわけではない。

では、本という形式はこのまま変化せずにいられるだろうか。
時代と共に媒体は常に新しいものに入れ替わってきた。
一方、書き手は増えていき、常に文章を生み出している。
人気の出てきた人ならば記事のまとめとして書籍化の話が出るだろう。
個人の記事から特定のテーマに限定して抽出したまとめ記事、のようなものが次の本の形になるのではないだろうか。

どのような形にしろ、人が文字を読む行為はこれからもずっと続いていくのだろう。そして書くことも。「読む」と「書く」は常に需給が一致している気がする。読みたい放題、書きたい放題の時代に感謝である。


まあ、読み方ってのはあると思う。

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