我々は震災から何も学んではいない

雑記
Gerd AltmannによるPixabayからの画像

緊急事態宣言解除を目の前にして思うところありすぎる日々。

10年前、別のブログで書いたことをふと
思い出して読み返したら、今回の騒ぎに
当て嵌まること多すぎて、やはり人間というのは
そうそう本質的な変化には至らないのだと
思えてきました。

以下、過去ブログの前文載っけます。
我ながら勢いのみでここまで書けたか、と納得の文章。


殴り書き垂れ流します。

 東日本大震災で、僕は初めて情報の氾濫というものに触れ得た、と思っている。テレビも新聞もない部屋であの地震に見舞われ、手元の情報源は一台のノートパソコンから繋がっているインターネットの世界しかなかった。
 もちろんそれまででも何かしら情報収集が必要な機会にはインターネットで検索を掛けて調べ物をする、という事は普通に行ってはいたが、殊に緊急性を要する今回の災害関連情報において、ネットに流れる情報の物量、スピードは既存のメディアを遥かに凌駕して圧倒的だった。情報を流通させるネット上のサービスは、すでに僕の認識を遥かに越えて整備されていた。
 その中でもツイッターを介して得られる情報は速報性の一点に於いてだけでも強力だった。ほとんど文字による実況中継の状態が形成されていた。テレビや新聞社が流す情報、海外のメデイアによる報道、そしてフリーランスのジャーナリストや多くの名も無き一般市民たち。それらがそれぞれの立場で手持ちの情報を一斉に発信し、しかもそれがツイッターというひとつの情報インフラの上で同列に扱われ、ユーザーに配信される。もちろん事前にそれらのアカウントをフォローしておかなければならないが、今回特に情報の幅、フォロー数を増やすきっかけになったのは、著名人たちのリツイートだ。被災者の生命にかかわる緊急性を要するSOSツイートが、情報を拡散させるために著名人のフォロワー数を頼ってリプライを送ってきたのをきっかけに、ツイッターのタイムライン上に大量のリツイートが溢れ返ったのだ。各地での災害の状況、その被害の大きさを伝える中にデマ情報が混ざり込み、さらにそれを打ち消す訂正、修正情報も瞬く間に駆け回って渾沌とする中、ついに原発事故の話が瞬時に全国を駆け巡った。
 一方で、テレビの世界にも革命的な現象が起きていた。
 震災直後からどこかの中学生が違法行為である事を認識しつつも、NHKの放送を無許可でネット上のストリーミング放送サービス、USTREAMとニコニコ生放送を使って不特定のユーザーに向けて配信し始めたのだが、各地で電車の運行停止と道路渋滞の蔓延で帰宅難民が溢れる中、NHKの人間がほぼ独断でこの中学生の行為を公式に認めてしまったのだ。そしてこの事をきっかけに、民放各社がこぞってUSTREAMやニコニコ生放送のチャンネルで災害特番の配信を始める事になった。
 僕にとっては久しぶりの民放だったが、この一連の流れをきっかけに逆にずっぽりと嵌まってしまったのがニコニコ生放送だ。これはいわゆる動画共有サイトニコニコ動画のストリーミング放送サービスで、確かにこれも震災以前からたまに視聴していたものの、民放放送との情報の質の違いに気付くきっかけとなった。
 この頃、あらゆる映像媒体上でひっきりなしに登場し、なおかつ世間の注目と評価を一身に集めていたのが民主党枝野官房長官だ。官邸発信の記者会見のほとんど全てに彼が登場し、千年に一度と言われるこの震災に毅然とした態度で向かい合う姿は、多くの国民に頼もしさを感じさせるものだった。首相である菅直人をほとんど置き去りにする勢いで人気もうなぎ上り。ツイッターでは不眠不休で活躍する彼に向けて「#edano_nero」(枝野、寝ろ)というハッシュタグが発生し、彼への励ましの言葉が相次いだ。降って湧いたようなこの枝野人気が、しかし、原発事故への対応を巡って徐々に変化していく。
 このあたりで、僕自身の情報への認識も変化し始めていた。
 目を覆わんばかりの津波の映像の数々、目に見えない放射能の恐怖、巷ではヒステリックなまでの物資の買い占めが横行し、流通の停滞、電力不足による輪番停電の実施……後から後からいくらでも湧いてくる。
 そして、主に原発問題に関連して、安全を主張するものと危機を叫ぶもののが現れ始めた。これが不思議なくらいにはっきりと情報の発信者を勢力図的に二分してしまう。前者は政府と事故の当事者である東京電力と大手のテレビ局や新聞社であり、後者はフリーランスのジャーナリスト達である。さらに各々の主張を違える学者や専門家たちがそれぞれの陣営に加わる構図となり、不特定多数の一般人たちがそれぞれに続く。
 これは現実に起きた事故への評価に加えて、原発政策への是非、実際に想定される被害への対応などの議論が一緒くたに言い交わされ、渾沌とした様相を呈し始める中で、短期間の中ではあるが徐々に顕在化してきた。一部一般人の中にはヒステリックな態度で言論者に対して感情的な議論を吹っ掛けるような場面も見られる。
 何故こんな事が起きたのか。
 それは簡単な話だ。情報が二分しているのである。
 地震の翌日にはガイガーカウンターを予備を含めて三つ持って福島に入ったフリーランスのジャーナリストがいる。彼の測定では測定可能な最大のレベルを超えてメーターの針が振り切れてしまったというが、その時政府は放射能が漏れる事はないと言っていた。真逆である。
 どっちを信じればいいのか?
 ここに至って『デマ』という言葉がその勢いを再燃させる。震災直後に氾濫した『デマ情報』は主に混乱に乗じた愉快犯や詐欺的なものを指して言われていたものだったが、再燃した『デマ』については、本質的な違いがある。そのほとんどが発言者が明確なものばかりなのだ。
 ツイッターやフェイスブックなどのウェブサービス上でも、政治家や学者やジャーナリストなど、立場が明確な者は殆どがその本名を明示していて、その上で発言している。公の場における発言の責任を負っている人々の見解が真っ二つに割れていたのだ。
 事故の危険性を指摘し続けた者は流言飛語の発信者として叩かれる一方で、政府や東電の出す情報に対して「安全デマ」などとやり返した。東京電力の原発に関する記者会見はフリーランスのジャーナリスト達の追及で荒れる事がしばしばだったが、大手マスコミは巨大なスポンサーである東電に遠慮して沈黙するシーンもあった。
 震災から一ヶ月が経ち、当初の政府発表を政府自身が否定するような事態(事故レベル7を認定)になり、それまで公表されなかった放射線の測定値が明らかにされた。さらには放射能に汚染された水を海洋放水し、この事故は国内に留まらず国際的な大問題にも発展した。被害は拡大しつつもようやく収束の気配が漂いつつあるが、まだどれだけの情報が背後に隠されているのか、という疑いはもう拭いようが無い。
 日常的にインターネットに触れている人にとってはこれらの話は周知の事実となっているだろうが、例えば僕の実家の両親などは新聞、テレビしか見ないので、こういったある種の情報戦争が起こっていた背景などまるで認知していなかった。情報を取得する側にも二分化が起きている。
 あの地震から、もうすぐ二ヶ月が経つ。現状は、火急な危機は脱したかもしれないが、それは最悪の事態をどうにか遣り過ごしたかもしれない、というだけの不安定なもので、依然として危機的状況はまるで改善されていない、という話になると思う。
 渋谷の街を歩くと、一瞬、それが分からなくなる。
 節電による影響はあるものの、既に緊張感というものが抜け落ちてしまったかのような空気だ。休日の度に起きる反原発のデモを歩道から眺めて、「なにこれー」などとまるで他人事のようだ。
 僕は未だに安心できない。小説を書こうとして喫茶店にきて、こんな文章を書いている。もともと気持ちの切り替えが下手な人間ではあるが、今の日本の現状を思うと頭痛さえしてくる。僕は何を書けばいいのだろう?


さて、ここまで読んでくれた方、どう思いますか?
あの時と比べて今の現状はどうでしょう。
大きな違いはあるでしょうか。
Twitterの玉石混交ぶりはさらに混沌さを
増しているものの、
あのような未曾有の大事件を経てなお、
私たちは大差のない対応に終始しています。
この10年の間に技術は進歩しました。
AIが生み出す新たな社会が話題になってました。
もちろんその可能性が奪われたわけではないけれど
僕ら人間も少しは進歩をしなければ
人工知能に笑われてしまう日が来てしまう気がします。

と偉そうなことを言いつつも、
自分には何ができるのか、
明確な指針はありません。
人の心に影響のある何かを生み出したい、
という気持ちはずっと変わらないのですが……

まあこの記事に小さな変化があるとすれば
カスタムCSSでブロック別に余白の設定ができたこと
くらいですね。
積み上げていこう。
何かの役に立つと信じて。

それでは。

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