ゆるいリーダー論 #1 「たのしくやろうぜ」

雑記

 いま手元でまとめようとしている文章があるのだがアホみたいに亀の歩みでなかなか進まない。原因は勢いで書いた大元の文章があっちこっち脱線しまくっているからだ。そこでまとめているものとは別にまとめない状態で書いてみることにした。もう支離滅裂でいいから打っちまえ、という開き直りである。

 あることをきっかけに東京での仕事の記録みたいな物を書いてみようと思ったら、意外なことにキーボードを打つ手が止まらなくなり、とりあえず五日で三万時程度になった。しかも内容が「リーダーとは」みたいなことになっている。ふと文章を振り返ると、何か恨めしい感情が乗っている部分でものすごく文字数を稼いでいる。やはり半分悪ふざけ的に言いたいことを書いていると自然と筆は進んでいくようだ。

 ここでもう脱線してしまうが「筆が進む」という表現がそろそろしっくり来なくなってきた。もはや不自然とさえ思う。だってこの文章だって筆なんか使っていない。キーボードを打っている。しかし「キーボードを打っている。」では長い。「指が走る」の方が慣用句的雰囲気があって良い。慣用句がツールの変遷によって変わっていくように、人の価値観はどんどん変わっていく。最近になって『FACTFULNESS』を読破したせいで余計にそう思う。筆が万年筆に変わり、鉛筆に変わり、キーボードに変わった。その上で最近の若いものは(おっさんくさい言い方だ)もうキーボードでもなくてフリックになっている。パソコンですら時代遅れになるというのか。おっさんは驚くばかりだ。

 日々の小さな変化が大きな時代の変遷とつながっている。
 司書として仕事をしているときはずっとそのことを気にしていた。時代によって必要な知識は変わり、人々が求めているものも変わる。新しい言葉がどんどん生まれてきて、辞書も更新されていく。変化は毎日起こっていた。その変化を感じながら仕事をすることは大いにやりがいがあった。その変化をどのように社会に還元することができるのか、それを行動に移せる仕事なのだという自負もあった。
 皮肉なことに責任者となってからはそのやりがいが失われた。
 現場を離れて書類と人事調整に追われた。
 正直にいうとつまらなくなった。
 ちょっと顔に出てたらしい。
 それでも数年続けられたのはスタッフに恵まれたからだった。
 現場には同い年の奥様とひと回り歳上の奥様がいて、ふたりはずっとそこで働いているベテランさんだった。二人とも仲が良くて、その上真面目でひたすら明るい性格の人達だった。僕はこの二人を天使だと思っていた。この人たちがいなければ続けられなかったかも知れない、とまで思う。どのような場を借りてでも例を言いたい人たちだ。

 うまいこと話が戻ってきた。
 そうだ、責任者だ。
 僕は責任者をやっていた。
 うまくできた部分とそうでない部分があった。だが概ね良い結果を出せていたと思う。リーダー仲間のひとりから「君に救われたものは多い」と言ってもらえたことが救いだ。だから自信を持とうと思う。僕は何とか責任者をやっていた。それなりにうまく。
 自分の中では「柄じゃないな」という思いがいつもあった。そもそも指示をするとか命令とかが嫌いだった。立場上指示出しする立場なのでそれはもう切り替えたけれど、命令は出すのもされるのも嫌だ。
 戦争じゃあるまいし。
 そう、仕事は戦争じゃないのだ。
 戦争だという人もいるだろうが、武器を持って撃ち合ったりしない。
 ときには財を奪い合うのかも知れないが、暴力で命のやり取りはしない。

 僕は東京で13回仕事を変えた。
 職種はバラバラで建設現場から映像の制作、データベースの開発、配送や遺跡の発掘もやった。ひどいと思った会社からはとっとと逃げた。給料を半分しかくれなかったり新人を現場に単独で放置したり、超管理体制で行動時間をガチガチに拘束したり。いろいろあった。具体的な話をすると「俺たちの会社はちょっとでもミスしたら馬鹿クソ死ねよって、平気で言える会社にしたいんだ」と飲み会の片隅で夢を語るみたいに言ってた社員がいた。特にひどい会社だった。あそこのネタは多すぎる。
 また脱線しそうだ。
 要するに色々やった。
 そして何故かリーダー役がまわってくる。
 未経験だと言っているのにサブチーフとか、「元請けの社員が使えないからお前頼む」みたいななし崩しだったりとか、よくわからない感じだった。社会人になって最初からそんな感じだった。もちろんうまくいかない。

 最初に入った制作会社は、結論から言うと3ヶ月の間給料を半分しか払ってくなかった。仕事は個人の携帯を使っていたためこれもきつい。家賃が払えない。おまけにチーフは製作費をキャバクラで使い込んでいた。製作費には僕らの食費が含まれていたので、結果、ろくに飯が食えず、何度も諍いを起こした。そんな環境で未経験でサブチーフ(業界的にはセカンドと呼ばれていた)である。自分も未経験だが、その下の方にも未経験がいた。年下だったが経験者もいた。毎日必死に頭を使っていたが、半分くらい空回りしてたかも知れない。その会社で学んだことは少ない。ストレスと不毛な困窮状態くらいしか思い出せない。
 それが最初のリーダー体験だった。
 今思い返してもなかなかひどい。
 結局家賃を3ヶ月分滞納した時点で辞めた。

 その次もなかなか大変な目にあったのだが、思い切って割愛しよう。
 あんまりひどい話ばかりで思い出してつらくなってきた。これは読んでてもつまらんだろう。
 つまりだ、社会に出ていきなり躓いていて、社会人2年目で
「もう責任者なんて2度とやらない!」
 という風になってしまったのだった。
 実際それからはリーダーという立場を避けまくった。
 そのような雰囲気を感じたらすぐに防衛線を張り警戒した。
 さっき紹介したブラックな会社ではすぐに離脱した。
 世間では「辛い仕事でも耐えて長く続けることが好ましい」ような風潮があるけれども、僕は辞めることを何とも思わなかった。
 辞めようと思わせる方がおかしいことをやっているんだ、と思っていたし、今でもそれは変わらない。せめて金はまともに払ってくれ。

 何にせよ、「リーダーなんてもう嫌だ」に至るまでがちょっと早過ぎた。それから気が変わるまでには8年の月日を要した。その8年の間、誰かが責任者やリーダーをやっているのを横から後ろから斜めから眺めていた。何かいろんな感情がそうさせた。ついつい観察してしまった。8年かけてじっくり観察できたおかげで、
「自分がやるならこうだろうな」
 という方法論が積み上がってしまった。
 その積み上げが8年目にして
「ちょっとやってもいいかな」
 という思いを生んでしまったのであった。

 8年という歳月は長いだろうか。
 僕にとっては挫折から立ち上がるまでに必要な歳月だったということだろう。しかし8年あれば結構いろんな物を見る。ブラックも見たしホワイトも見た。ぬるま湯も腐敗も見てきた。おかげで危険人物に対するレーダーが発達した。そのような経験から自分の中でひっそりとスローガンを掲げた。

「もっと楽しくやろうぜ」

 と。
 だってさ、どの仕事見ても思うわけよ。
 何でわざわざ苦しんでんのって。
 もっと楽できるじゃん
 きつい言い方する必要ないよね
 頑張るの、時々でいいよ
 できるんだ、これは。
 実際できたよ。
 やりましたよ。

 そのために回りくどいこともたくさんやる。
 じっくりやっていく。
 じっくりコトコト煮込んだ現場は笑顔が溢れる楽しい現場になる。
 僕のやり方は完全アンチブラックなので、強いリーダーシップを身につけたい人には全く役に立たないと思うけど、なるべく命令しないで何とかやりたい人にはいいヒントになるだろうと思う。
 そのためのキーワードが

・「自分」
・「楽」
・「不在」

 の3点。
 いちおうちゃんと責任者の話です。
 これで興味が湧く人は続きも読んでみてください。

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